ながぁ〜〜くなりますが、次女が学校の総合学習で、「戦争」の話は体験者に聞くのが一番だから、おじいちゃんやおばぁちゃんに、話してもらえるよう、手紙を書いて、返事をもらいなさい・・・という宿題が出た。
 それで、ばぁちゃんが、返事を書いてくれたけど、達筆で子どもには読みにくい。それで、昨日ずっと、ワードで清書をしていた。
 ばぁちゃんは、昭和3年生まれだ。若い人は体験談なんて、聞いたことがないかもしれんし、読むのが、大変だとは思うけど、載せておきますからトライしてみてください。
   


   志野ちゃんへ
 お手紙、ありがとうね。字が上手になったね。おばあちゃんの手紙をママに読みやすいよう、清書してもらいました。勉強の参考にしてね。


☆戦争が始まった・・・・

 おばぁちゃんが女学校の一年生(今の中学一年生)の昭和16年12月8日、学校へ行って初めて開戦のニュースがラジオから流れたことを思い出します。

 真珠湾(ハワイにある)での開戦がまだどういう事か、わからないまま、その後の授業でアメリカ、イギリスとの戦争になったんだと知らされました。
 やがて、だんだん戦争が激しくなり、一年生の時は英語が一週間に5時間あり、とても厳しい先生で、ビクビクしながら覚えましたが、2年生になったら英語が2時間になった。それで、だんだん分らなくなったので、3年生になって、また3時間に増え、厳しくなりましたが、英語はイギリスやアメリカの言葉・・・つまり敵国の言葉なので、他の学校では教えなくなっていました。

 戦争の方はだんだん日本が負けだし、海を越えて戦闘機が日本上空に現れて、爆弾を落として行くようになりましたが、勉強や運動には厳しい学校だったし、今のようにゼイタクは出来ません。
 毎日学校まで、4km・・往復とも歩き、バスに乗ったことを見つかると叱られました。また、学校には農園もあったので、耕作も少しさせられました。

赤紙

 おばぁちゃんのお兄ちゃんが昭和18年(おばぁちゃんが女学校3年のとき)、軍隊に強制的に入隊させられる知らせがきました。そのお知らせが「赤紙」です。

 その時は本当に悲しかった。今、こうして書いていても涙が出ます。悲しくて悲しくて涙ながらに書いた「兄、入営の朝」という作文を、上手だといってみんなの前で、読んでもらいました。

 その当時は「軍国の母」といって、自分の子どもが戦死してしまうかもしれないとしても、入隊する子どもを泣いて見送ってはいけない。「お国のために頑張って戦うように」と笑って見送るのが、いいことだとされていました。

 おばぁちゃんのお母さんは、「軍国の母」として、お兄ちゃんを笑って見送りました。

 でも、おばぁちゃんは偶然ですが、お布団をかぶって泣いているお母さんを見てしまいました。本当に悲しい出来事でした。

 そのお兄ちゃんは昭和20年4月18日に北支(今の中国)で戦死しました。
 こうやってたくさんの人たちが戦死させられ、今の平和な日本があります。その戦死した人たちが、靖国神社にまつられています。今、中国や、韓国が問題にしているところです。
 靖国神社には、こうやって戦死した人ばかりじゃなく、戦争へと日本をみちびいていった人たちもまつられているからです。

☆学徒動員

 昭和19年4月10日、生徒学生が名古屋の鶴舞公園に集められました。

 岡田中将という人が来て「学校でペンを握る時間よりも、戦争に必要なものを作る工場へ出て行って頑張れ」といわれた。

 それからは休みなしでした。工場が休みの時は学校。「すし詰め」状態の講堂で、勉強させられました。
 おばあちゃんは、三菱航空機製作所というところに行きました。飛行機の部品のネジ類を狭い仕事場で作りました。
 おばあちゃんは、書類の整理だったので、割と楽でしたが、工場が名古屋港の方だったので通うのが大変でした。
座席はなし。たくさん乗せて運ぶため、座席は取り払われていました。みんなすし詰め状態。そのかわり食事は工場で食べさせてもらえた。

 昭和19年12月18日、とうとうB29(爆撃機)による大空襲がありました。

 その前にも12月13日に空襲があり、それは本当にひどかったです。

 空襲では、戦争に関係のあるものを作っている工場が中心に攻撃されますが、このときは、三菱発動機(今の名古屋ドームの近くの矢田町)がやられ、工場には、学生がたくさんいますから、その学生たちが避難した防空壕が爆弾の直撃を受け、たくさん死にました。
 
 たくさんの死者があちこちにころがり、電線にはちぎれた人の一部がひっかかっていました。それはそれは、むごたらしいものでした。

 その教訓で、18日は防空壕へは入らず、熱田神宮近くの内田橋の土手にみないっせいに伏せました。

 B29の連隊による攻撃。それを目の前で見ていると本当に恐ろしい。爆弾がドンと落ちるとすごい地響きで、地面が割れるかと思いました。

 大同製鋼の上空を何度も何度も旋回をして爆弾を落とす。およそ一時間くらいだと思いますが、地響きにおびえながらひたすら伏せていました。

 工場に帰ると、それはもう見る影もなく爆弾にやられ、死傷者もたくさん出ていました。

 運良くおばあちゃんは、怪我もなく助かりましたが、よく生きていたものだと思います。

防空壕

 空からの爆撃を避けるため、穴を掘って逃げ込む場所を作りました。それが防空壕です。

 昭和20年3月10日は夜間の大空襲、4月7日は昼間の大空襲。

 夜間の場合、まず、焼夷弾(しょういだん)が落とされ、周りが昼の様に明るくなります。それから空襲が始まる。警報が鳴ると、一斉に防空壕に避難します。

 あばあちゃんが結婚する前に住んでいた家では、2ヶ所に大きな防空壕を掘って
避難したけれど、実際は、なまやさしいものではありませんでした。

 名古屋の中心部も、今おばあちゃんが住んでいる吉根もB29に爆撃されて燃えました。場合によっては低空飛行で、人間も攻撃します。それで、死んだ人もいるのです。

☆食事

戦中は「ぜいたくは敵だ」という時代だったから、今のようなご馳走はありません。

 おばあちゃんの家はお寺だったので、年貢をもらったりしていたから、何とか食べていられたけれど、戦争が長引くにつれ、食料はなくなり、サツマイモが主食になりました。

 おばあちゃんは痩せていて、栄養失調と言われていました。

終戦

 昭和20年8月14日も、守山の川村とか、春日井が中心の空襲でした。
 おばあちゃんは、爆風と一緒に防空壕の中に飛び込みました。あぶないところでした。

 翌8月15日、その頃、おばあちゃんは小学校の先生でした。分教所にいると、子どもの使いが来て、とにかく学校へ来い・・・ということでした。

 そこで、天皇陛下のお声のラジオ放送で、戦争が終わったことを知らされました。

 むずかしいことは、よくわかりませんでしたが、「とにかく、もう空襲はないんだね・・」と、みんなで、喜び合いました。ただただ、嬉しかった。



しかし、戦後の食糧事情は配給になり、もっと厳しくなりました。芋粉やきび粉を食べていました。それらの粉を団子にしたり、米の少ないおじやに水を入れて量をふやして、何とか食べていました。

 いつも、みんなおなかをすかしていました。

 買出しやら、ヤミ市やら、世の中全体が食べるだけ、食べていくのがやっとの時代に変わっていきました。戦後も大変だったのです。

 これからも、あんなにたくさんの人が苦しんで死んでいった戦争のことは忘れないでほしいと思います。いつでも、お話しは、してあげられるからね。がんばってお勉強してね。      
                                           おばあちゃんより








 この際だから・・・私の体験談も入れとこ。

 私は当然戦後生まれだから、戦争には無縁だ。しかし、60年安保はおぼろげだけど、覚えているんだ。




 あれは、高校一年の時、化学の先生で、まぁ、実名でいってしまうけど北村先生というインタレスティングな先生がおられた。
 うちの高校は古くて、正門を入ると、左側に、これもまた古いばっちぃ剣道場と柔道場があった。
 北村先生は、私たちがサボったりしてると、たいていはヒステリーを起こし、説教をする。

 うちの高校は昔、一中と呼ばれていて、優秀な男子校だった。

 「お前らは、若者らしい正義感で、死んでいったあいつらのことを知らんだろう!!」
  (そんなん、知らんて・・・)
  「あの、剣道場や柔道場にだな!『飛行機の操縦は自転車よりも簡単』という張り紙が出て、お前らよりもず〜〜〜〜っと優秀なやつらが、兵隊にとられていった。レーダーで、何とかなる飛行機じゃない!先に敵を見つけないとやられる。しかし、視力が0.1の学生まで、志願してとられていった。お前ら、それはどういう事かわかるか!死ぬってことだぞ!」

  私たちはよくわからないまま・・・「それはかわいそうだな・・」みたいな感じで、黙って聞いていた。

 卒業してどれくらいたったころだろう。北村先生は自殺された。

 今から思うと、理不尽な兵士の募集を、ちゃんと本当の事を言って、若い学生を救ってやれなかった・・・若者らしい義憤に満ちた情熱を導いてやれなかった・・先生としての、ず〜〜っと良心の呵責にさいなまれておられたんだと思う。

 私は「火垂の墓」をまともに見れない。しかし、あれは実話だ。

 理不尽な話は枚挙に暇がない。それが戦争なんだわ。