■
占いによると、私には「外国」がついてまわるみたいだ・・・。
だから、「ふるさとはアジア」・・・を歌っているのも、納得できる部分もあるのだ・・・。
しかし、それよりももっと大事なのは、「外」との差を体感する・・・ってことかもしれない。
私は、名古屋に住んでるけど、この地方の人って、基本的に「親」は子供は同じ地方に住むものだ・・・と思っているふしがある。
そのかわり、名前を聞いただけで、じぃちゃんのことまでわかってしまうような怖さもある。
その意味では、東京より安心ってことかな・・・。
でも、・・・他を知らないんだから、考え方がせまくなる。
例えば、名古屋で「メイ大」っていうと「名古屋大学」だけど、東京あたりでは「明治大学」だ。
でも、名古屋の人は、「名古屋大学」は国立だし、有名だと思っているんだ・・・。
ほんとは、「名古屋大学なんてあるの?」なんて言われたのだ・・・・東京で!(名古屋の人は信じんだろうけどさ)
私・・・学校は、外国語学部だったけど、残念ながら喋れない・・・。学費を出してくれた親には申し訳なく思っている(汗)
外国語学部なんだし・・・先生は外人ばっかだった。
日本人の先生はスペイン語がらみで3人(私はイスパニア科だった)。
一人は東京外語の名誉教授で、貿易イスパニヤ語を教えてもらった。
一人は新聞イスパニヤ語の先生で、奥様はかわいらしいスペインの人で、同じくスペイン語の先生だった。
で、あとは、ちょっと変わったW先生が一人・・・。
大学の先生って変!・・・ってそのW先生に教えてもらってそう思った(失礼だけど・・・)。
私は実は残念ながら。。。身近なアジア諸国に行ったことないのだ・・・(汗)。
別に行きたい・・・と思わなかったし、機会もなかった・・・。
これからだと思っている・・。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
私が初めて外国に行ったのは、フランスで飛行機事故で亡くなった友人の一周忌だった。
アンカレッジ⇒ハンブルグ⇒フランクフルト⇒パリ・・・っていう状態で行った。
嘘みたいな雲海、朝になったり夜になったり・・・不思議な時間・・・
フランクフルトからは、小さいショッキング・ピンクの座席のエール・フランスだった・・・。
日本では考えられない色!
パリでは、ルーブル近くの小さい落ち着いたホテルに泊まった。
3月だと、パリの夜明けは遅い。
ザッザッ・・・みたいな大勢の足音で(出勤の足音)目がさめて、時間は7時過ぎてるんだけど、外は真っ暗なんだ・・。
びっくりしたな・・。
パリからバスで、サンリスへ・・・。そこからエルムノンビルの森へ・・・。ここに飛行機は墜落した。
森では、赤十字の人たちが暖かい飲み物や軽食を用意して下さっていた・・。
日本人は34人くらい亡くなったと思う。
友人の遺体確認はできていたから、ラッキーといえる。
わからなかった人もあったのだ。。。
それから、パリ市内のチエ墓地へ。
ここは、合同墓地だ。小さいかわいい子供の写真もあったから、子供も乗っていたんだろうね・・。
で、ほぼ2週間、彼らがするはずだった旅をかわりにしてきた・・・。
オルリーからヒースローまで、およそ40分・・・。友人の父上はヒースローに着いた途端「たったこれだけ!?」と叫んで、涙ぐまれた。
アンカレッジから10時間以上飛んでヨーロッパに来た・・・。
なのに・・・たった40分足らずのフライトで墜落したわけだから親としてはたまらなかったんだと思う・・・。
ロンドンから、ローマ、フィレンツェ、チューリッヒ、アムステルダム、ロッテルダム・・・と回り、帰りはモスクワ経由だった・・・。
疲れて眠りこけて、ハッと目が覚めると翼にすごい気流があったっているのがわかった。
で、その先に、まさしくユーラシアが広がっていたのだ・・・。「地図」と同じだった!
それから7回忌にもう一度行った。
同じガイドさんに「大きくなったねぇ・・」と言われる。
まぁ・・・老けたってことだわ・・・・’(汗)。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1978年の一月の終わり、チリ音楽祭に行った。
まだ、羽田だったな・・・。
パンナムのジャンボSPで12時間。けっこう高いところを飛ぶんでノドが痛かった・・・。
ケネディー空港は雪で、アメリカは寒波に見舞われていた・・・。
南半球に行くんでコートは羽田でおっかさんに渡した。寒かった・・・・
ランチレ(チリ航空)に乗り換えるには、バスで行く必要があるんで、地下に降りていくと、日本では高級車のムスタングだかマスタングだかがボンネットをガタンガタンさせてすごいスピードで入ってきた。
で、警備員の人と英語でやりあっているんだけど、スンゲェ〜怖い!
ランチレに着くと、手に持っていた、あちらの人たちへのお土産がない!結局、最終的にはけっこう大きなお人形とか、ぜ〜〜んぶあちこちに忘れた。
飛行機は、何時間か遅れて出発したけど、まずマイアミで「ノー・スモーキング」のまま8時間、止まっていた。
説明はナシ!
で、何か聞こう・・・と頑張って構文なんか思い出そうとすると、先生の顔も一緒に出てくる。
面白いもんだなぁ・・・と思った。
それから、ハバナ・・・それから・・南米に入ると、陸地の色が違う!
で、リマで、サンチャゴ。
でも、荷物がない!衣装も譜面もない。指揮者の先生の荷物もない!
チリ音楽祭の出演者って国賓なのだ・・・。でも、何でもないトラックが迎えに来た。
南へ一本道。周りは柳の木みたいのが生えてる砂漠みたいな土地・・・。
ビーニャ・デル・マール・・・という町へ行った。すごくきれいな町。
音楽祭はキンタ・ベルガーラ・・・という野外のステージで行われた。でっかいステージ。
この音楽祭は、南米各国に中継されているんだけど、その年、初めてカラーで放送されたんだった・・・。
荷物は、本番一日前に届いた・・・
で、衣装合わせの時に、あちらの人が私の白いドレスを見て、「白はカラーにはよくない」と言う。
あれぇ??、白が一番いいんじゃなかったっけ?
私は、おかっぱだったし、16〜17歳に見られ・・・、スペイン語を片言でも、しゃべったりするもんだから、面白がられたみたいだ・・・。
それと着物を着ていても、チャイニーズだか、ジャパニーズだかの区別がつかない・・・。
まぁ・・・、そんなもんよ!
昼はシエスタで店とか休み!夜は9時ころから、真夜中まで店はやってる。
車の路駐は、右左関係なく、向きも関係なくキツキツに止っていて、出るときは、前の車のバンパーに自分の車ぶつけて、それから、バックして後ろの車にぶつけて、スペースを確保して出て行く・・・(今は知らんけどね)。
日本とはえらい違いだ。
通訳は英語とスペイン語なんで、英語かスペイン語が話せないとどうしようもない。
通訳は、めちゃかわいいおねぇさんで、彼女の彼のシトロエンは日本なら車検通りそうもない車だった・・・。
いっしょに過ごしていると、日本もチリもへったくれもなくなって、思わず彼女に日本語で話してしまって驚かれたりもした。
音楽祭のグランプリは、地元の歌手で「ビベ・トゥ・ビーダ」というの。
「お前の人生を生きろ!」みたいな意味だな・・・。
私のは「うまくいかなくても」という曲で「ベスト・アレンジメント賞」というのをもらった。
飛行機が満員でだめだったけど、「プンタ・アレナ」へ脱走したかったし、リマでも脱走したかった。
インカの遺跡とか、見たいじゃん・・・。
帰りはやっぱりケネディー空港で足止めをくらい、余分に一泊をよぎなくされたけど、その時に、ホテルを探すのに協力してくださったのは、空港で英会話の練習台になってくださったどこぞのアメリカ紳士だった。
翌日、ケネディー空港から、ジャルで、アンカレッジ経由で羽田に戻ってきた。
行きは、片道36時間かかった・・・。地球は広い!
私のどんぶりは、こういうイキサツで完成したと言ってもいいかもしれん。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
私は、名古屋にいると、ちょっとそういう人生観という意味で、ウンザリすることがある。
こだわる場所が違う・・っていうか・・・
私が、ドンブリで少数派なのは間違いないんだわ・・・・(汗)
そういう意味で、文化交流用言語は大事だし、ニューヨークで音楽・・・っていうそういうことだけじゃなく、もっと人間がかなわない大自然を見てほしいとも思う。
人間っていかにちっぽけか・・、自然がいかにすばらしいか!・・・大事か・・・アルプスもアンデスもすごかった・・・。マッキンレーも。
アフリカ行きたい、ヒマラヤ見たい・・・・欲張りなんだわ・・・・(汗)
でも・・・・知らないほうが、幸せかもしれんけどね・・・・夢があって・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・